入退院を繰り返す
両親のもとに
私の足が向かなかった
もう一つの理由。。。
それは
母と15歳年下の妹、
私の叔母との特別な関係にありました。
叔母は幼い頃、
質屋さんのお仕事で祖母が
忙しかったため、
母によく面倒をみてもらったそうで、
いつも母のお尻にくっついて
遊んでいたそうです。
母と叔母は大の仲良し。
こどものころ
母に連れられて福岡によく里帰りしていましたが、
私が朝から晩まで祖父にべったりだったため
姉妹2人で四六時中つるんでいました。
もちろん叔母は
私のことをものすごくかわいがってくれましたが、
子ども心に
母と叔母の関係は特別なものだったように
感じていました。
叔母は
有田焼き、伊万里焼きなどを販売する美術商の
凄腕セールスレディーとして
お勤めしていましたが、
祖父にあまりに
かわいがられ過ぎて
星の数ほどあった縁談を
断り続け、
どうしてもお嫁に
行けなかったという
情の深い心優しい女性です。
祖父、祖母を
全力投球で看取るために
会社もやめて、
同じ福岡に住んでいた
兄二人も
最終的には叔母が
看取りました。
思い込んだらとことん。
気性は激しいけど
面倒見がよく太っ腹。
頼りにされる
お友達もたくさん!!
そんな叔母は、
経済問題を抱えていた
母に対しても
面倒見のよ過ぎる性格を
発揮していたのです。
母が結婚するときは、
「大好きなお姉さんを取られた!」
と感じて、
その悲しみで
父のことがずっと好きになれなかったくらい、、、
その母が
結婚当初から実家にお金を
無心していたことも
知っていたので、
そのころから
父に高級洋酒など何くれと
贈り物を送っていたと
いうのです。
母のお金の無心先は、
祖父が亡くなったあと
そのまま
祖母に引き継がれ、、、
最後となった入院先の
病院のベッドで
祖母が嘆き悲しんでいたのをみた叔母は、
祖母を心配させたまま
あの世に送ってはいけない!
と危機感をつのらせ、
母への金銭援助をそのまま
引き継いだのでした。。。
それからというもの、
母はカードの
支払い時期になると
叔母に無心を繰り返し、
叔母は祖母から引き継いだ
一家の財産を
何度も母に投入。
新横浜のマンションに
引っ越したあと発覚した
母のカード支払いトラブルの際は、
私も大学勤務で貯めた貯金があった時期だったので
可能な限りは不足分を補填しましたが、
叔母はもっともっと前から、
長期間にわたって
母の経済支援をしていたの
でした。
お金のトラブルの一端は知っていたものの、
真相の全貌を叔母から
詳しく聞いたのは
父が硬膜下血腫で倒れた
後でした。
そして母の脳出血、
私の頸椎病。
母が退院したあとは、
車いすでの不便な生活を
心配して
自然食のレトルト食品や
飲料、日用雑貨まで
大きな段ボールで月2回
福岡から横浜のアパートに送ってくれるという
手厚いケア。
父は杖をつきながらの身で、
自分が気に入った
総菜を買うのに
精いっぱい。
父が買ってくる食糧品は
母の口に合わず、
宅配のお弁当も味にうるさい母は食べれません。
母は、そんな父に遠慮して
何かひとつ買ってきて
もらうにも
なかなか言い出せず、、、
頼んでいちいち面倒くさがられるのが嫌だったというのが
真相のようですが(>_<)、、、
長年夫婦として
同じ屋根の下に住んでいて、
お互い協力し合わなくてはならないのに、
なぜになぜに
こんなにコミュニケーションが取れなくて
食い違い、すれ違いのだろうか?????
夫婦の溝は
どこまで行っても埋まらないのだろうか????
娘の私には
まったく理解不能でした。
というか、
そういう両親を許せなかった、というのが
私の本当の気持ちでした。
叔母のヘルプは
それだけにとどまりません。
電話で声を聞くのも恐い
私の代わりに
毎日何度も母に電話して
生活のようすを聞いて
くれたり、
硬膜下血腫を2度再発した
父とのちぐはぐな生活に
ストレスを
ため込んでしまい、
不安からくる体調不良で
パニック障害に陥ったときも
電話で福岡から何度も救急車を呼んでくれたり、
父も母も長時間電話に
出ない時があれば、
心配のあまり
消防車を呼んで
くれたり、、、
私の身体の病だけでなく、
「親と会うのが恐い」「声を聞くのも恐い」という
心の病を気遣ってくれて、
私を心配させまいという一心で
主人と連携を取りながら
遠く福岡から
母、そして父の面倒までみてくれていたのです。
それをいいことに、、、
というわけではありませんが、
(いや、「それをいいことに」かもしれません、、、)
私は親の用事はできない!
したくない!
自分の治療に専念する!
という自己中心的な態度を
貫き通したというわけです。
実際、その時の私は
「複雑怪奇なこの親たちに付き合っていたら、
ぜったい自分が倒れる」
と真剣に思いこんで
いましたし、
それほど
首の痛みやふらつきは
重症でした。
他人からみたら「いとも薄情な娘」ですが、
本人の「絶対無理」という
ブロックは
それはそれは強固なもの。
頚椎症で人生の行き先に暗雲が立ち込めている上に、
そんな親不孝な自分が
たまらなくいやで
ますます自己嫌悪が募る
ばかり。
ひたすらドクターの治療と
セミナーに通い、
自らの症状との格闘に
専心することで、
親の問題から目をそらし続けること以外に
自分を保つすべがなかったのです。
つづく