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  • 田中悠美子(ながえゆみこ)

わたしの世界観21~母の一時退院でマグマ噴出

更新日:2020年3月26日


2015年1月

父の「硬膜下血腫」に続き、

2016年4月

私がインフルエンザで意識不明転倒、

後頭部強打。

5月26日には

母が「脳出血」で入院。

一家3人が

同じような時期に

同じ「頭」の不具合を

抱えたことになりました。

これも何かの因縁だったのでしょう、、、、

幸い、

母の脳出血も

命にかかわる大事には至りませんでした。

とはいえ、

電車の切符も一人では買えないくらい

車ばかり乗っていて、

すでに足腰が弱っていた母。

リハビリ病棟に移って

毎日懸命に歩行訓練したものの

足の麻痺は治りきらず、

とうとう車いす状態になってしまいました。

そんな母が、

父と2人の

アパート生活に戻る練習をするため、

8月10~11日に一時退院しました。

どう考えても

2人きりにさせるわけにはいかず、

私は付き添い役で

横浜のアパートに1泊しました。

そこで、

これまでマグマのようにぐつぐつ煮えたぎっていた

私の中の長年の「怒り」「不安」が

堰を切ったように

大噴出してしまったのです。

思い起せば、

物心ついたこどものころから

父と母は

しょっちゅう喧嘩を繰り返していて、

私はどうしてこんな家に生まれてきちゃったんだろう、、、

という悲しみや無力感が

心の底に刻まれていました。

その原因が

2人の相性の悪さだけではなく、

お金の問題らしい、ということは

なんとなく感じてはいましたが、

自分が成人したあとのあとまで

真実は

ずーっと闇の中でした。

私が大学に就職して

東京のアパートを引き払い、

同時に

両親が一軒家から

新横浜のマンションに引っ越すことになったことを

きっかけに、

母が長年隠し続けていた

金銭問題が

とうとう

露わにならざるを得なくなりました。

母は

苦労して一代で財産を築き上げた

福岡の銀行員の祖父のもと、

三男二女の長女として

蝶よ花よと育てられ、

まったくの苦労知らずで

経済観念ゼロ。

一方の父は、

前の代からの借金を抱えながら

大連から身一つで引き揚げてきた

萩の文化人名士の祖父に

厳格に育てられた四男三女の長男。

海軍兵学校の

軍隊教育を骨の髄まで叩きこまれ、

戦後苦学生をしながら九州大学に通い、

大企業に就職したサバイバー。

しかも「大の変人」。

そんな2人、

価値観が合うはずもありません。

母は父の意向に一切耳を傾けず、

娘を鎌倉の私立一貫校に入れたり

ピアノのお稽古に通わせたりするために、

実家から

恒常的に経済援助を受け続けていたのです。

福岡の祖父は

私のことを目に入れても痛くないほどに

かわいがってくれていたので、

母が一言頼めば

孫のためならどこまでも!

と支援に支援を重ねてくれていました。

父は、

母が人の言うことを聞くはずもないことがわかっていて、

最初から最後まで見て見ぬふり。

私は事あるごとに

「あなたのせいでお金がかかった」

と母から言われ続けていましたが、

結局のところ

私への援助金はずっと福岡の祖父から出ていたわけで、

祖父が亡くなった後、

今度は祖母が引き継いで

毎月のように送金してくれていたことがわかりました。

祖母が亡くなった家のあとを引き継いだ

母の妹、

つまり私の叔母が

そのことを教えてくれたのです。

私としてみれば、

大学は国立で当時の授業料は驚くほど安かったし、

義太夫三味線の世界は

他の伝統芸能の世界と違って

質実剛健で、

お月謝代はタダだったし、

ものすごい贅沢をした覚えもないし、、、

実のところ、

派手なピアノのママ友や、学校のママ友たちに合わせて

ずいぶんと分不相応な出費が度重なっていたことは

想像に難くありません。

新横浜のマンションに移り住んだあと、

母の「どんぶり勘定」が引き起こしてきた

経済トラブルが次々に発覚したのです。

そのころは、

大学からマンションに帰るたびに

母vs.娘(ときに父も交えて)の

激烈な口論が絶えませんでした。

そのあげく、

私が大学勤めをやめてしまったことをきっかけに

母が隠し続けてきた借金のせいで

新横浜のマンションの家賃も払い切れなくなって、

両親は結局URの団地に引っ越すことに。

引っ越し後の母は

「あなたたちのせいで新横浜のマンションを追い出された」

と父や私に恨み言を連発する日々。。。

父も母も

ともかく自分のことしか考えられない

究極の自己中人間、、、

というか、

人の気持ちを汲み取れない

ちょっとしたアスペルガー的な

人々で、

2人の間にはまともなコミュニケーションが

成立していなかったのです。

同じ屋根の下に暮らしているのに、

まったくコミュニケーションが取れず、

いちいち娘が間に入らないと

会話が成り立たないという

迷惑この上ない構図、、

しかもいまや2人とも

身体が不自由、、、、

そういう私も、

彼らの気質を多少は(;^ω^)受け継いでいて、

こどものころからぼーっとして気が付かないことだらけでした。

しかも一人っ子で

周りからかわいがられることしかなくて、

人さまのことが考えられない

「自分ファースト」人間でしたが、

幸いにも

古典芸能の世界に入って

かなり鍛えられました。

とはいえ、

伝統芸能界はやっぱり(;^ω^)合わなくて、

究極の自己表現を追求している

偏った人間が多い(;^ω^)特殊な音楽業界で

いったん羽根を伸ばしかけたものの、

大学に就職することで

「曲りなりにも」社会生活を学ぶことができました。

(うちの大学の先生方も、かなり「独りよがり」が多かったですが、、)

また、

子どもがいないとはいえ、

主人と結婚することで

家庭内の学びもハンパなくあり、

それなりにまともな人間らしさを

身につけることができていたつもりでした(;^ω^)。

が、

まだまだ修行が足りなかった私。

いとも特殊な親2人、、、、

どうにもなりません。。。

「またか」の

母の不条理発言と

父の無責任発言、

同じ屋根の下にいて

ちっともコミュニケーションが取れない2人、、、、

とうとうぶち切れた私は

床に転がっていた空き缶を蹴飛ばし、

興奮のあまり異常なハイ状態に。

一晩中まんじりともせず

リビングの固い床に身を横たえ、

夜中に

母がトイレに行けるか、

父がちゃんと起きて母の介助ができるか

見張っていましたが、

案の定、

父は起きてこないし、

母は一人でトイレに行こうとして

危険な状態に、、、

ううう(ノ_-。)、、、、

私はこれからこの

わからずやな親たちを背負って

生きていかねばならないのか(。>0<。)、、、

結局朝まで一睡もできず、

翌日午前中に来てくれた

ケアマネさんに

「これから自分がこのわからずやな2人を背負うことを考えると、

不安で不安で仕方ありません(x_x;)!」

と泣きついて、

帰宅の途についたのでありました。

そして

、、、

つづく


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