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  • 田中悠美子(ながえゆみこ)

わたしの世界観3~ピアノが上手なフツーの女の子が、、


源頼朝の屋敷跡地にある

清泉小学校の生徒さんたち、

当時は比較的裕福なおうちの子が多かったようです。

わたしは

横須賀線で戸塚から鎌倉まで通っていましたが、

電車の中でよく

横須賀基地の米兵さんに

「かわいいねえ!」と声をかけられ

遊んでもらった覚えがあります。

そのときから

「外国人はみんなやさしくていい人たち」

という刷り込みがあったためか、

いまでも外国人アーティストとの共演が

楽しくてしかたありません。

お誕生会におよばれすると、

たいがい

鎌倉や逗子などの大きなおうちでしたが、

きたない社宅アパートの狭い部屋で

自分のお誕生会をしたのも

なつかしい思い出です。

中学高校は、

小学校からエスカレーターでそのまま清泉女学院に入学。

小学校は男女共学でしたが、

完全女子校。

修道院のシスターが教師として多く在籍され、

良妻賢母を育てる校風で、

「神のみ前に、清く正しく、愛深く」

が教育理念です。

観音さまのそびえる大船駅に近い

玉縄城跡地に立つ校舎で、

スクールバスに乗りそびれると

長い坂道をえっちらおっちら登らなくてはならず、、、

朝は遅刻寸前までうちでだらだらしていることが多く、

たいがい父か母の運転する車で登校していました

(;^ω^)

あいかわらず

母から強制されるピアノのお稽古が

いやでいやでたまらなかったけど、

お勉強は上位の成績。

クラブは知り合いの先輩にすすめられたまま

「カトリック研究会」。

(かなり地味~な感じ(;^ω^))、、、

英語の先生が

ちょっと変わったおもしろい感じのおじいちゃんで、

大のお気に入りでした。

白髪のオールバックで

いつもステッキをついて歩いていましたっけ。

祖父の面影を感じていたのかもしれません。

中学に入ったころに

社宅から一戸建てに引っ越しましたが、

お隣が農家という自然に恵まれた環境(よくいえば(;^ω^))で、

林や田んぼや沼地に集まる鳥さんたちと戯れて

「ぼーっ」とするのが大好きな、

ごくフツーの子としておだやかな毎日を過ごしていました。

ところが、、、中学2年のある日、

ふとテレビをみていると、、、、

眼鏡が机にくっつくほど顔を近づけ、

だみ声の青森便でしゃべりながら

取りつかれたように彫刻刀をふるう版画家

「棟方志功」(むなかたしこう)の姿にくぎ付けになりました。

「変わった人だなあ!でも、なんかイカしてる~」

アイドルだった棟方志功

”青森のゴッホ”!!!

       20世紀の日本美術界を代表する世界的巨匠です!!!

たちまち大ファンになって本や写真集、画集を買い込み、

夏休みになると、鎌倉山の別荘まで車で連れていってもらい、

1時間くらい付近をうろつくという

ストーカーぶり(;^ω^)

志功を入口に、

浮世絵や水墨画、陶芸、木工、染色など、

日本の美術や伝統工芸といった

アートの世界にあこがれを持つようになりました。

このころから

世の中の常識や規則にとらわれない

直感・ひらめき型

「アート気質」

とか

人と同じでなく、人とは違う

「変わったものや人」

への志向性

が頭をもたげてきたようです。

高校の授業では

英語と古文と物理にとくに興味がありました。

物理の音波の授業で

発振器の「ピー」という音を聴いて

やたらにうれしくなったことをいまでも鮮明に覚えています。

サンプリング、エレクトロニック音楽への

嗜好がすでに芽生えていたのでしょうか(;^ω^)??

合唱コンクールではかならずピアノ伴奏役だったものの、

音楽の先生が声楽家の先生で、

いわゆる頭声が出なかったために

歌のテストではよい点が取れませんでした

(;^ω^)

そろそろ大学の進路を決める

高校2年のころ、

ちょっとした事件ヾ(▼ヘ▼;)が起こりました。。。。

つづく


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