女流義太夫の世界から
完全にフェードアウトしたそのころ、、
芸大楽理科の先輩で、
上越教育大学で教鞭を取っておられた
茂手木潔子さんから
1本の電話が入りました。
「兵庫県の教育大学の芸術系で
いま教員の募集をしているそうよ。
和楽器の実技もできて
日本音楽史も教えることができる人を探しているそうで、
あなたが適任と思って電話してみたの。
学習指導要領が変わって、
中学校の音楽の時間に
和楽器を取り入れる動きがあるので、
ちょうどいいタイミングと思うわ。
兵庫なら、義太夫節の本拠地
大阪にも近いし、
国立の教育大学だし、
応募してみない?
あなたは東京で演奏活動しているから
無理かもしれないけれど、
一考の価値があると思う。」
兵庫県??
教育大学??
(´・ω・`)
なんだか場違いだなあ、、
とはいえ、
古典の場から完全に去ることで
音楽活動の両輪のうち片方が失われ、
かといって
義太夫三味線を使った新しい音楽は
そう簡単にはみつからないし、
アパート引っ越して家賃払うのがきつくなってきたし
(。>0<。)、、、
考えに考えた結果、
「ダメ元」で応募してみることにしました。
楽理科を出て、
縁故採用で大学の非常勤講師になることは
そう難しくはないのですが、
「音楽学」の常勤講師の採用は全国的に数少なく、
専任として就職するのは至難のわざ
、、、、
よし!チャレンジしてみて、
もし受かったら人生を仕切り直してみよう
と決意しました!!
今まで書いたこともなかったような
正式な書式による業績表を書いたり、
山のような演奏資料や録音物を
かき集めて整理したり、
応募資料を作成するのに1か月、、、
。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
それはそれは手間ひまかかりましたが、
なんとか提出完了!!
そして
ななんと
採用が決まったのです\(^o^)/!!
東京を離れる寂しさと、
新天地で生まれ変わるワクワク感、
両方の気持ちが複雑に交錯しました。
母は大喜び!!
「国立大学の先生になるなんて、
三味線弾きになることを心配していたおばあちゃまも、
喜んでいるわ~!!」
(;^ω^)、、、
直接の上司となる
民族音楽学の水野信男先生
(芸大楽理科の先輩)に、
「うちの大学はものすごい田舎にあるので
びっくりしないでくださいね!」
とさんざん脅かされていましたが、
たしかに、、、
兵庫教育大学は、
周囲を田畑に囲まれた山間部にありました。
町の大きな施設はジャスコくらい。
東京から向かうと、
新大阪から高速バスに1時間ちょっと乗って
そこからタクシーか路線バス。
片道5時間はかかります。
近県のみならず
全国からやってくる学生さんたちは
学生寮に入り、
教員も職員も宿舎に入る人がほとんどでした。
さいわい、
初年度の98年は
3月に、ローレンスDブッチ・モリスの「コンダクション」
(指揮によってコントロールされる集団即興演奏)
アメリカツアーがあったので、
赴任が5月からとなり
前期の担当授業はありませんでした。
週に2日~3日
大学の研究室に詰めていればよいという
夢のような生活で、
車の免許がなかったので、
片道30分かけて歩いて郵便局に行ったり、
1時間に1・2本しかないバスで
ジャスコに買い物に行ったりして
田舎暮らしをおもいきり満喫!!
ただし、
家賃月1万8千円(゜o゜)の宿舎の部屋が古くて、
キッチンやお風呂場が使いやすいように工夫したり、
虫が入ってこないように隙間を塞いだり、
住環境を整えるのに
ひと苦労しました。
生まれてはじめて対面した
ゲジゲジちゃんと大格闘(;^ω^)し、
吸い込んだ掃除機を
おそろしさのあまり3か月放置していた(;^ω^)のも
今ではよい思い出です。
1か月も経つと、
さすがに車がないとどうにもならなくなって、
近くにあった自動車教習所に通い始め、
30代後半ではじめて免許を取得しました。
後期から始まった授業は
「日本音楽史」と、
三味線・箏初心者の学生のための
「器楽演習」(実技レッスン)などを担当。
他コースの学生にピアノを教える
「初等音楽」という授業もありました。
(その後、徐々に和太鼓合奏や卒業論文の指導なども加わっていきました。)
水野先生や芸術系コースの同僚の先生方には
親切に接していただき、
学生たちも、
(さすがに音楽レベルは決して高くはありませんでしたが、)
小学校の教員をめざす
こども好きの明るい子ばかり!!
現職教員がモラトリアムで派遣されてくる
大学院生(とくに芸術系以外)は
理屈っぽいおじさんやおばさんが多くて閉口しましたが、
三味線や箏の実技レッスンでしか
お付き合いがなかったので、
実害はありませんでした(;^ω^)。
「理屈が服を着て歩いているような」教授の先生方や
事務職員さん方(しかも男性だらけ)に囲まれる
「会議」以外は、
楽しいことばかりだったといっても過言ではありません。
なにしろ
大学での仕事がまだまだユルかったので、
間宮芳生先生や高橋悠治さん関係の
東京での演奏活動もありましたが、
就職を機に引っ越した新横浜の実家に週一で帰れば
問題なかったし、
「日本音楽集団」の中近東公演や、
グラーツにおける日墺合作の新作演劇参加など、
国際交流基金関係の
海外ツアーも、
余裕で行くことができました。
ところが
、、、、