11月9日
父永眠。
アパートで父の最期を
看取った車椅子の母は、
小規模多機能の
施設長さんと職員さんに付き添われて
ひとまず施設に引き取られました。
母によれば、
亡くなる前日は
いつもの母をしかりつけるような物言いとは
全く違ったようすで、
「えみこ~、えみこ~」と何度も母を部屋に呼びつけ、
そのたびに行ってみると、
「いや、なんでもない」と。。。
夜寝る前にまた呼ばれて、
言われたままにおしめを取り替えてあげたら、
なんとめずらしいことに
「ありがとう」と言ったというのです。
それまで家族に「ありがとう」なんて
言うような人ではなかったのに、、、
そして翌朝。
部屋をのぞきにいったら
ベッドで寝たまま息を引き取っていたそうです。
父のようすをちっとも見に行かなかった私は
「もうきついから電話してこないでくれ、、」
と言われてから2日ほど
電話をしなかったのですが、
その間にみるみる命の火が燃え尽きてしまったのです。
エンディングノートも何も
遺さず
あっけなく逝ってしまいました
、、、
お葬式の手配の仕方も
何もわからず、
24時間対応の葬儀社に連絡。
自宅で亡くなったために
かなりややこしいことになりましたが、
各種手続きや移動付き添いは
全て葬儀社が引き受けてくれました。
警察での検案も無事済み、
死因は「老衰による多臓器不全」と確定。
眠っているうちの大往生。
あと11日で90歳の卒寿でした。
火葬場の空きがなく、
お別れは土日を挟んで7日後となりました。
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父のお葬式を待っている間に迎えた
大石先生の遠隔治療19回目。
事前シュミレーションは
「心包に親父さんのエネルギーが。
トラウマではなく、先祖の影響と考えられます。
心包→胸椎5番→家庭運→父親
今までの
ネガティブエネルギーをプラスに変換する
ヒーリングを行います。
そうすることで
3次元のマイナスエネルギーを浄化して、
親父さんが良い世界に戻れる後押しをします。
家庭運が上昇するので、
田中さんと旦那さんにも還元されます。
次に肉体ですが、
肝臓→肝臓神経→胸椎7番
→後頭部から右の血流、右脳に影響
→右上肢→右半身に波及。」
父は、戦争の影響、先祖からの影響を受けて
金運や家庭運が今一つよくなかった。。。
たしかに
前の前の代に起こった三文判による連帯保証人の話や
大連からの引き上げの途中亡くなった
父の最初の母親(私の祖母)の話、
戦後の混乱で苦学生を強いられたことなど、
母から聞いたことがありました。
父が背負っていたネガティブエネルギーは、
父本人のせいではありませんでした。
私はこどものころ
そのような父のネガティブエネルギーを
直感していましたし、
根っからの仕事人間で、
子どもに愛情を示すことが不得手なタイプの人だったので、
父から愛されているという実感がありませんでした。
それが、私の自己肯定感の低さに
影響を与えていたように感じます、、、
そして、
父が召された後、母とどう向き合って行くのか?
その答えは
「逃げずに向き合う!
自分の病に対しても、母親に対しても!」
いつにも増して
深い学びを頂きました。
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11月16日。
父のお別れ会は
横浜の葬儀場で行われました。
母は体調が悪く出席できず、
私と主人、小諸に住む父の弟ご夫婦だけの
ささやかなお別れ会となりましたが、
そこでまた不思議な出来事が
、、、
私の代わりに
叔父と何度か父のお見舞いに来てくれたり、
電話やメッセージのやりとりで
ずっと励ましてくれていた
義理の叔母から
やさしいいたわりの言葉をかけてもらった途端!
首筋から胸部にかけて
強烈な痛みとともに涙が、、、
かなり動揺しましたが、
必死に心を鎮めて内観したところ、
これまで何回にも分けて
少しずつほぐれて来ていた
上半身のねじれが、
かなり劇的にゆるんだ様子です。
父からの
なんらかのサインだったと
直感しました、、、、
そして最後のお別れのご挨拶。
父は
生前みせたことがないような、
それはそれは穏やかな
仏さまのような顔で眠っていました。
涙、涙、涙で遺骨をいただき、
近くの和食屋さんで
故人を偲び会食しました。
ここでも
驚くような出来事が、、、
叔父、叔母と
じっくり話ができたことで、
私が今まで抱えていた父へのブロックについて
かなりな誤解と思い込みがあったことがわかったのです
(;´Д`)!!!!!
父が家族に対して
あまりやさしさをみせてくれなかったわけ、、、
それは、
父の父親、つまり萩の祖父が、
「男たるもの、家族の女こどもに甘い顔を見せるな」
という方針の人で、それが田中家の家風だった。
その田中家の長男として、
父はその家風をまじめに受けついだのだ。と、、、
そういわれてみれば、
父は家庭の外ではけっこう社交的だったようです。
お酒が大好きで
酒飲み友達もけっこういたようだし、
ケアマネさんから、
施設でも社交的だったと
聞いたことがありました。
そうか、そういうことだったのか、、、
うちではわざと
そっけなくしていたのか、、、、
だから、この世に生きている最後の最後の日に
「えみこ~、えみこ~」と何度も母を呼んで
生まれて初めて自分の妻に甘えることができたのか、、、
もう、もう、もう、大泣きに泣くしか
ありませんでした
、、、、
永眠の報せの日に続き、
お葬式の日にも
不思議な出来事を
起こしてくれた父の魂。
生きている間に
もっともっとたくさん話をして
もっともっと交流しておくべき
だったのです
、、、
今思えば、、、
私が東京で一人暮らしを始めるために
実家を出て行くとき、
母は引っ越しトラックに乗りこむ私を見送って
泣いていましたが、
兵庫教育大学に就職するため
新横浜のマンションを出るとき、
見送る父の姿に思わず涙をこぼしてしまったのは
私でした。。
私は心の底では父が好きだった、、、
父も私を愛してくれていたのに、
愛情を表す方法がわからなかった、、、
トラウマがあろうとなかろうと、
私は親のことが好きなはずなのに、
愛されていたはずなのに、、、
なぜ私は親の顔をみるたびに
はげしく喧嘩してしまったのだろう、、
なぜ互いにうまく愛情が表現できなかったのだろう、、、
すべてはお金のせいだったのだろうか、、、
親孝行、
したいときには親はなし。
つづく
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