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ちなみに、、、、

大学の仕事は

もちろん真面目にこなしていました。。。

(;^ω^)

講義と実技レッスンの両方があるので、

授業の準備は音楽コースのほかの先生方の

倍以上かかっていましたし、

そのほかにも

卒業論文・修士論文の指導、

教育実習の指導、

学年担任、

公開講座講師、

大学内各種委員会への出席、

他大学の非常勤講師、

付属中学の音楽授業補佐、

邦楽コンクール審査員、

教育研修会出席、

学会活動、

等々々、、、、

大学の先生というのは、

自分の研究業績を積んで、

あとは授業だけやっていればよい、というわけには

いかないのです。

しかも私の場合、

その「研究業績」について

演...

ハイナー・ゲッベルス

Hashirigaki"世界ツアーで

2003年にニューヨークを訪れ、

世界最先端の演劇や音楽、ダンス、映画、アートのメッカ、

BAM(ブルックリン・アカデミーオブ・ミュージック)で公演した時のこと。

終演後のパーティー会場で、

1人の日本人女性に声をかけられました。

ジャパン・ソサエティーのディレクター

塩谷陽子です。

私、楽理科出身なの!」

えええ!!こんなところで

楽理科の人に会えるとは(゜o゜)!!

学年が1年違い、

行動範囲がまったく重ならなかったので、

学内で会ったことはありませんでしたが、

私とほぼ同い年。

彼女はハイナー...

大学に就職して以降も

東京の演奏活動はずっと続いていました。

私は、

演奏も教育も

両方できるという条件のもとで

教員に採用されたので、

論文や書籍の執筆などの研究業績がさほどなくても

演奏活動が業績として評価されていました。

演奏のために

やむなく授業を休講にしなくてはならない場合は、

学生の了解を得て補講を適正に行えば

問題はなかったのです。

しかし、、、

2000年秋に、

スイスのローザンヌで初演された

ハイナー・ゲッベルス演出による音楽劇

”Hashirigaki"(はしりがき)に参加することになってから、

事態が徐々にややこしくなっていきました。

...

女流義太夫の世界から

完全にフェードアウトしたそのころ、、

芸大楽理科の先輩で、

上越教育大学で教鞭を取っておられた

茂手木潔子さんから

1本の電話が入りました。

「兵庫県の教育大学の芸術系で

いま教員の募集をしているそうよ。

和楽器の実技もできて

日本音楽史も教えることができる人を探しているそうで、

あなたが適任と思って電話してみたの。

学習指導要領が変わって、

中学校の音楽の時間に

和楽器を取り入れる動きがあるので、

ちょうどいいタイミングと思うわ。

兵庫なら、義太夫節の本拠地

大阪にも近いし、

国立の教育大学だし、

応募してみない?

あなたは東京で演奏活動している...

古典の場では、

文楽の名人・10世竹澤弥七師のもとに長年通われた

鶴澤重輝師の東京のお稽古場に通い、

「ツレ弾き」がある演目に並ばせていただいて、

駒之助師、重輝師とご一緒に

越路太夫師のお稽古に

連れていっていただいたり、と

たくさんの学びと感動がありました。

しかし、

古典一筋ではないことで、

楽屋やお稽古場でのお手伝いがおろそかになっていた

私の不誠実で「いいとこどり」な姿勢と、

それをなかば放任していた

師匠への批判がとうとう噴出!!

「あんな都合のいい人をのさばらせてはおけない!」

あまりの居心地の悪さに

ますます体調が不安定になり、

足もどんどん遠のいて...

ドイツツアー帰国後

、、、、、

当然ながら「ただ」ではすみませんでした、、、

(T_T)

錦糸師匠からはクビを申し渡され

「野澤錦鈴」の名前は永遠になくなったのです。

駒之助師が心配して下さり、

師の越路太夫師にご相談されたところ、

「越路師預かり」という形で

駒之助師の門に戻り、

当時駒之助師のお三味線を弾かれていた

女流の鶴澤重輝師にお稽古をみていただくよう

采配していただくことになりました。

名前は自分のペンネームの「悠美子」からとって

「鶴澤悠美」に改名。

それまで、

駒之助師の三味線を弾かせていただくときには、

錦糸師に三味線をお稽古していただき、

そのあと...

大学院も、

修士課程は通常2年のところ

1年延長(;^ω^)!

3年目に修士論文

「三味線音楽の旋律型分析試論

    ――初代都一中作の一中節を中心として」

を提出し、

3月、無事に修了。

学部に6年、院に3年、

計9年もモラトリアムを満喫した

夢のような学生生活も

ついに終わりを告げました。

その同じ月、、、、

国文学者、邦楽研究家として

当時の邦楽界で絶大な権力を握っていた

平野健次先生から

呼び出しを受けました。

日本・東洋を中心とした

世界の民族音楽の研究を行う

「東洋音楽学会」の学生会員のころから、

吉川英史先生・岸辺成雄先生といった

日本音楽研究の重鎮や中堅の...

本牧亭での初舞台は

「お盃」の儀から1年後、

大学4年の12月でした。

もちろん、

大学ではそれなりに勉強して、

それなりの成績を取っていました(;^ω^)。

楽理科の学生は、超優秀な女子がほとんどで、

変わった感じのオタクっぽい男子や、

NHKなどのメディア関係に就職するために入学した現実派男子も

パラパラと混じっていました。

なかには、

ピアノばかり弾いている人とか、

チェンバロ奏者を目指す人とか、

単に、芸大に入れるならどの科でもよかった、

というような人もいましたが、

そのほとんどが、

音楽学の研究者、音楽評論家、大学の先生などをめざしていて、

まさに「お勉...

じつは、

三味線をはじめたことについて

母は猛反対でした。

「せっかく今までピアノのお稽古を続けてきたのに、

 三味線????

 そんな大道芸で使われるような楽器

 とんでもない!!!!

 三味線折ってやる~!!!!

 キーーーッヾ(*`Д´*)ノ"彡☆!!!!」

(私は「大道芸」大好きです~💗)

やれやれ(^_^;)、、、

洗脳もあってなのでしょうが、、

いわゆる戦中派は、欧米文化へのあこがれが強すぎて、

自国の文化への理解がない人たちが多かったのですね、、、

そんな母も、

国立劇場で行われる「文楽」

というブランドに安心したのか、

次第に文句を言わなくなってき...