わたしの世界観15~婚活・主人とのであい

ちなみに、、、、 大学の仕事は もちろん真面目にこなしていました。。。 (;^ω^) 講義と実技レッスンの両方があるので、 授業の準備は音楽コースのほかの先生方の 倍以上かかっていましたし、 そのほかにも 卒業論文・修士論文の指導、 教育実習の指導、 学年担任、 公開講座講師、 大学内各種委員会への出席、 他大学の非常勤講師、 付属中学の音楽授業補佐、 邦楽コンクール審査員、 教育研修会出席、 学会活動、 等々々、、、、 大学の先生というのは、 自分の研究業績を積んで、 あとは授業だけやっていればよい、というわけには いかないのです。 しかも私の場合、 その「研究業績」について 演奏の実績だけ積めばよい、 というわけにはいかず、 所属学会向けに 論文を書かないとなりませんでした。 もともと文章を書くのは 嫌いではありませんでしたが、 「査読」つきの正式な論文となると 話は別です。 資料収集から含めると、 1本書くのに 最低1年はかかります。 「コツコツ積み上げる」のが苦手な私にとって 論文書きはなかなかにキツイ作業でした。 とはいえ 論文もある種の「自己表現」なので、 いったん軌道にノリ始めると それはそれで 楽しくもありました。 が、、、 どうしてもなじめなったのは、 ここが 「国立の教育大学」だったということ。 現場の先生の再教育も含め、 基本は「初等教育」。 小学校(中高の教員免許も取得できますが)の先生や 幼稚園の先生を育てることが 本位です。 日本の小学校の先生は 基本的に一人が全教科を教えるので、 極端にいえば 各教科についての専門的な深い掘り下げは それほど重要で

わたしの世界観14~ニューヨークへ

ハイナー・ゲッベルスの ”Hashirigaki"世界ツアーで 2003年にニューヨークを訪れ、 世界最先端の演劇や音楽、ダンス、映画、アートのメッカ、 BAM(ブルックリン・アカデミーオブ・ミュージック)で公演した時のこと。 終演後のパーティー会場で、 1人の日本人女性に声をかけられました。 「ジャパン・ソサエティーのディレクター 塩谷陽子です。 私、楽理科出身なの!」 えええ!!こんなところで 楽理科の人に会えるとは(゜o゜)!! 学年が1年違い、 行動範囲がまったく重ならなかったので、 学内で会ったことはありませんでしたが、 私とほぼ同い年。 彼女はハイナーさんの大ファンだそうで、 ヨーロッパでのほかの演目初演も かならず観にいっている、 と嬉しそうに話してくれました。 帰国後、 その彼女から連絡が、、、 なんでも、 ニューヨークの人形劇アーティスト バジル・ツイストが、 徳島の農村舞台に残る 『道具返し』 (ふすまが次々と開かれ、千畳敷の座敷が奥へ奥へと続くようにみえる舞台装置) をテーマにした新作を創るにあたり、 義太夫三味線演奏家を探しているので 私を紹介してくれる、 とのこと。 「とりあえずお見合いみたいな感じで 中継ぎするね。 彼、来年春日本に行くので、 よかったらミーティングしてみない?」 ということで翌2004年春、 京都芸術センターでバジルと最初の顔合わせ。 ↓ バジル・ツイスト 気さくな感じのハンサムさんで、なかなかの好感触 淡路人形座と徳島の農村舞台も訪ねるというので、 人形浄瑠璃が盛んな 淡路島・徳島の事情視察も兼ねて、 随行することに。。。 ちょう

わたしの世界観13~大学勤務と海外公演

大学に就職して以降も 東京の演奏活動はずっと続いていました。 私は、 演奏も教育も 両方できるという条件のもとで 教員に採用されたので、 論文や書籍の執筆などの研究業績がさほどなくても 演奏活動が業績として評価されていました。 演奏のために やむなく授業を休講にしなくてはならない場合は、 学生の了解を得て補講を適正に行えば 問題はなかったのです。 しかし、、、 2000年秋に、 スイスのローザンヌで初演された ハイナー・ゲッベルス演出による音楽劇 ”Hashirigaki"(はしりがき)に参加することになってから、 事態が徐々にややこしくなっていきました。 大好きなハイナーさん ハイナーさんは、 ドイツを代表する超大物作曲家・演出家。 96年11月、 Ground Zero時代の大友良英氏つながりで、 埼玉芸術劇場にて日本初演された 『プロメテウスの解放』を観に行って、 テキスト、音楽、照明、美術、アクトが脱構築された 息をのむほど美しい舞台に圧倒され、 文楽を観にいってビビビっときた時以来の 衝撃を受けたのでした!! ちょうど同じ年の2月に、 埼玉芸術劇場の館長だった 諸井誠先生の作品を演奏する機会があり、 そのつながりも功を奏して、 音楽企画制作の野田茂則さんに連れられ 終演後のパーティーに潜入!! 例によって ひらめいたら「即行動」の私は、 ハイナーさんに「一緒にお仕事したいです!!」と直談判 晴れて4年後、 新作音楽劇に 音楽家、役者(^_^;)として 参加することになったのでした!! ちょうど大学が夏休みの8月、 レマン湖畔のシアター・ヴィディで行われた ドイツ語とフ

わたしの世界観12~兵庫教育大学に就職

女流義太夫の世界から 完全にフェードアウトしたそのころ、、 芸大楽理科の先輩で、 上越教育大学で教鞭を取っておられた 茂手木潔子さんから 1本の電話が入りました。 「兵庫県の教育大学の芸術系で いま教員の募集をしているそうよ。 和楽器の実技もできて 日本音楽史も教えることができる人を探しているそうで、 あなたが適任と思って電話してみたの。 学習指導要領が変わって、 中学校の音楽の時間に 和楽器を取り入れる動きがあるので、 ちょうどいいタイミングと思うわ。 兵庫なら、義太夫節の本拠地 大阪にも近いし、 国立の教育大学だし、 応募してみない? あなたは東京で演奏活動しているから 無理かもしれないけれど、 一考の価値があると思う。」 兵庫県?? 教育大学?? (´・ω・`) なんだか場違いだなあ、、 とはいえ、 古典の場から完全に去ることで 音楽活動の両輪のうち片方が失われ、 かといって 義太夫三味線を使った新しい音楽は そう簡単にはみつからないし、 アパート引っ越して家賃払うのがきつくなってきたし (。>0<。)、、、 考えに考えた結果、 「ダメ元」で応募してみることにしました。 楽理科を出て、 縁故採用で大学の非常勤講師になることは そう難しくはないのですが、 「音楽学」の常勤講師の採用は全国的に数少なく、 専任として就職するのは至難のわざ 、、、、 よし!チャレンジしてみて、 もし受かったら人生を仕切り直してみよう と決意しました!! 今まで書いたこともなかったような 正式な書式による業績表を書いたり、 山のような演奏資料や録音物を かき集めて整理したり、 応募資料を作成するの

わたしの世界観11~鶴澤悠美から田中悠美子へ

古典の場では、 文楽の名人・10世竹澤弥七師のもとに長年通われた 鶴澤重輝師の東京のお稽古場に通い、 「ツレ弾き」がある演目に並ばせていただいて、 駒之助師、重輝師とご一緒に 越路太夫師のお稽古に 連れていっていただいたり、と たくさんの学びと感動がありました。 しかし、 古典一筋ではないことで、 楽屋やお稽古場でのお手伝いがおろそかになっていた 私の不誠実で「いいとこどり」な姿勢と、 それをなかば放任していた 師匠への批判がとうとう噴出!! 「あんな都合のいい人をのさばらせてはおけない!」 あまりの居心地の悪さに ますます体調が不安定になり、 足もどんどん遠のいていくのでありました。 そんな中、 1993年12月には 田中悠美子の名前で 自作曲や現代音楽の作曲家への委嘱作品による リサイタルを決行 師匠のお仕事を 「リサイタルがありますので」と断る 大失態をしでかし、 ついにその後 「音信不通」⇒「お役ごめん」状態になったのでした。 そりゃそうです(;^ω^)、、 駒之助師には、女流義太夫の三味線弾き として育てていただき、 文楽の師匠のもとをクビになった時には 「鶴澤悠美」として再出発できるようにと 救っていただいておきながら、 「私は田中悠美子としてやっていきたいです!」的 まったくもって撥当たり極まりない、 後足で砂を蹴るようなことをしまったのですから、、、 とはいえ、 リサイタル翌年から 古典以外の演奏の機会はどんどん増えていきました。 「劇団四季」の和ものミュージカルや 吉本興業プロデュースのミュージカルへの参加。 仙波清彦さん関係では 「はにわオールスターズ」 (

わたしの世界観10~野澤錦鈴から鶴澤悠美へ

ドイツツアー帰国後 、、、、、 当然ながら「ただ」ではすみませんでした、、、 (T_T) 錦糸師匠からはクビを申し渡され 「野澤錦鈴」の名前は永遠になくなったのです。 駒之助師が心配して下さり、 師の越路太夫師にご相談されたところ、 「越路師預かり」という形で 駒之助師の門に戻り、 当時駒之助師のお三味線を弾かれていた 女流の鶴澤重輝師にお稽古をみていただくよう 采配していただくことになりました。 名前は自分のペンネームの「悠美子」からとって 「鶴澤悠美」に改名。 それまで、 駒之助師の三味線を弾かせていただくときには、 錦糸師に三味線をお稽古していただき、 そのあと越路師の京都のご自宅にも 必ずお稽古に連れていっていただいて、 「一生の宝」となるようなお稽古を 何度もご一緒させていただいていましたが、 越路師はこの不祥事に対して寛容に受け止めてくださり、 駒之助師とともに救いの手を差し伸べて下さったのでした ( ;∀;) 錦糸師匠はその翌年人間国宝に認定され、 同じ年の11月、悪性腫瘍により他界されました。 4世鶴澤綱造譲りの剛腕、 2世野澤喜左衛門譲りのはなやかな芸風。 愛犬のブルドッグちゃんをこよなく愛しておられ、 お酒を飲んでおられるときのご機嫌なお顔は 今でも忘れられません。 さて、 そんな大事件が起こったあと、、、 竹本土佐廣師を 女流義太夫初の人間国宝の座に導くとともに、 長年「畳敷きの会場から椅子席の会場へ!」と 運動されていた 当時の義太夫協会会長・吉川英史先生のご尽力で、 1989(平成元)年に 月例公演の本拠地が 本牧亭から国立劇場演芸場に変わりました。

わたしの世界観9~ドイツのツアーに

大学院も、 修士課程は通常2年のところ 1年延長(;^ω^)! 3年目に修士論文 「三味線音楽の旋律型分析試論 ――初代都一中作の一中節を中心として」 を提出し、 3月、無事に修了。 学部に6年、院に3年、 計9年もモラトリアムを満喫した 夢のような学生生活も ついに終わりを告げました。 その同じ月、、、、 国文学者、邦楽研究家として 当時の邦楽界で絶大な権力を握っていた 平野健次先生から 呼び出しを受けました。 日本・東洋を中心とした 世界の民族音楽の研究を行う 「東洋音楽学会」の学生会員のころから、 吉川英史先生・岸辺成雄先生といった 日本音楽研究の重鎮や中堅の先生方と ご縁がありましたが、 平野先生も、 大学院の授業を履修して ご縁をいただいた 先生のおひとりでした。 その呼び出しの内容は、、、 「ドイツで 文楽レクチャーデモンストレーションツアーを企画した ベルリン大学の私の教え子がいるのだが、 出発の直前に 三味線弾きが『師匠に反対されたので、、』と キャンセルして来て、 ツアーが潰れそうで大変困っている、 と泣きついてきたのだよ。 その師匠が”かん口令”を敷いてしまい、 文楽の中では 誰も三味線を引き受けなくなってしまったわけだ。 女流ならなんとかなるのではないかと 君を呼び出したのだが、、、 参加者全員が誰にも口外しなければ、 海外のことだし ばれることもない。 君の師匠にも 絶対ばれないようにするから、 大丈夫だよ。」 当時の文楽は、 なぜか海外公演というと ことごとく実現しないような状態だったようです。 平野先生は、 私より少し先輩の女流の三味線弾きさん(現在

わたしの世界観8~初舞台そして現代邦楽

本牧亭での初舞台は 「お盃」の儀から1年後、 大学4年の12月でした。 もちろん、 大学ではそれなりに勉強して、 それなりの成績を取っていました(;^ω^)。 楽理科の学生は、超優秀な女子がほとんどで、 変わった感じのオタクっぽい男子や、 NHKなどのメディア関係に就職するために入学した現実派男子も パラパラと混じっていました。 なかには、 ピアノばかり弾いている人とか、 チェンバロ奏者を目指す人とか、 単に、芸大に入れるならどの科でもよかった、 というような人もいましたが、 そのほとんどが、 音楽学の研究者、音楽評論家、大学の先生などをめざしていて、 まさに「お勉強大好き!」な人たちが しのぎを削っている状態。 そんな中、 三味線演奏にすっかりはまっている私は かなり異質な学生でしたが、 同学年に日本音楽研究を専攻するおともだちが けっこういたし、 民族音楽研究のカリスマであった 故・小泉文夫先生や、 日本音楽研究の小島美子先生といったスター研究者が、 民族音楽や日本音楽のすばらしさを強力に発信されていたので、 日本音楽を演奏することに おおいなる誇りを持つことができたのでした。 論文の指導教官は、 能楽研究の大家 故・横道萬里雄先生。 丸眼鏡のおじいちゃんで、 「おじいちゃん好き」な私の一番のお気に入りでした。 名物の「弾丸トーク講義」は 情報量がハンパなく、 毎回ノートを取ってついていくのにみな必死(>_<)!!! しかも能のお謡や仕舞、囃子の実演が入りまくり、 「理論と実技の両輪」による研究成果は 他の追随を許さないものがありました。 わあ!私も横道先生のように、 演奏

わたしの世界観7~文楽の師匠に入門

じつは、 三味線をはじめたことについて 母は猛反対でした。 「せっかく今までピアノのお稽古を続けてきたのに、 三味線???? そんな大道芸で使われるような楽器 とんでもない!!!! 三味線折ってやる~!!!! キーーーッヾ(*`Д´*)ノ"彡☆!!!!」 (私は「大道芸」大好きです~💗) やれやれ(^_^;)、、、 洗脳もあってなのでしょうが、、 いわゆる戦中派は、欧米文化へのあこがれが強すぎて、 自国の文化への理解がない人たちが多かったのですね、、、 そんな母も、 国立劇場で行われる「文楽」 というブランドに安心したのか、 次第に文句を言わなくなってきていました(;^ω^)。 さて、 駒之助師がご紹介くださったのは、 4世野澤錦糸師。 師匠である昭和の大名人、 4世竹本越路太夫師にご相談くださり、 「錦糸くんがええやろ」 ということになったそうです。 さっそく 国立劇場の楽屋に連れていかれて 錦糸師、越路師にご挨拶。 当時、 4世竹本津太夫師とともに人間国宝だった越路師の芸は 理知的で品格があり、 ほかの太夫さんとは別格だなあ、と感じていました。 楽屋では、たくさんのお弟子さんたちに囲まれながら 静かにお仕度をされていて、部屋中ぴりぴりとした空気でしたが、 私の顔をみて 「うんうん」とうなずいておられました。 錦糸師は、 越路師よりだいぶ気さくな感じのやさしそうなおじいちゃんで、 まずは宿泊先の旅館でお稽古をしていただくことに。 ありがたいことに、最初のお稽古で 「筋がいい」と気に入っていただき、 とんとん拍子で師のもとに入門することになりました。 義太夫の世界は、 ほかの

わたしの世界観6~伝統芸能界へ

東京芸大には邦楽科があります。 当時は、 三味線音楽の長唄、常磐津、清元、 邦楽囃子、 箏曲、尺八、 能楽、能楽囃子 の各専攻があり、 2年生から副科実技として 専攻生でない学生もレッスンを受けることができました。 文楽をみて義太夫三味線を演奏してみたい!とひらめいたのは 1年生の時で、 まだ副科の授業を取ることができませんでした。 しかたなく 邦楽科のおともだちに 長唄三味線をちょこっと教えてもらいましたが、 なぜだかすぐに演奏できるようになっていました。 「三味線、おもしろい~(●^o^●)」 (最近わかったのですが、私のご先祖さまに三味線奏者がいらしたようで、その方の霊的導きで三味線を始めたようです) 「でもやっぱり義太夫三味線が弾きた~い(*´▽`*)!」 ところが、邦楽科には「義太夫三味線」を教えてくれる科が ありません。 そこで私は、 『横浜文楽同好会』という鑑賞組織に入り、 そこの事務局長さんと仲良くなって、 竹本文字太夫師(のちの人間国宝・竹本住大夫。今春逝去。) を紹介していただき 「直談判」しました (≧▽≦) 「義太夫三味線の勉強をしたいのですが、 文楽に入ることはできませんか?」 すると、、 「女性は文楽に入ることはできまへん。 女流の義太夫さんを紹介しますわ。 文楽の師匠にお稽古してもろうてる優秀な人で、 間違いない。 そこいってお稽古してもらいなはれ。 それが一番や。」 えっ女流義太夫 な、なんだそれは 明治期後半に大流行した娘義太夫 さっそく、 当時女流義太夫の月例公演が行われていた 上野広小路「本牧亭」(2011年閉場)におもむきました。 生まれ

わたしの世界観5~三味線にであう

お受験のために 母が探してくれた先生は、 東京芸大楽理科出身の 超優秀で、見目麗しい先生でした。 ご主人は大手企業の役員さんで、 お勤めしながら作曲家でもあるという なんとも優雅な方。 その先生のもとで、 英語の楽書購読や小論文の書き方を学び、 和声法やソルフェージュ、楽典は 別の先生のところに通いました。 本格的にお勉強に通い始めたときは、 もうすでに高校3年になっていたかと思います。 当時は、 夜から深夜にかけてラジオ放送を聴きながら受験勉強する、 というような時代だったのですが、 わたしは 『アメリカントップ40』 をはじめ、 『現代音楽の時間』『世界の民族音楽』など、 クラシック音楽以外の音楽番組ばかり 聴いていました。 ふと、、、 そういえばなぜ、 日本の音楽大学に入るために 英語や西洋音楽関係の勉強ばかり しなくちゃならいのだろう??? という素朴な疑問が、、、、 棟方志功のおっかけをすることで、 日本文化に興味をもった自分としては、 「日本の音楽」がどんなものであるかほとんど知らないことが 不思議でたまらなくなってきました。 福岡の祖父は、 里帰りするとお座敷で「お謡」のお稽古をしていたし、 祖母の日本舞踊のお稽古に連れられて、 わたしも少しだけ舞踊を習ったこともありました。 でも、 戦争体験者の父や母は 欧米文化におもいっきり憧れをもっていた人たちだったし、 まわりに日本音楽をやっているお友達もいなかったし、 音楽の授業で鑑賞したこともないし、、、 日本音楽や芸能に関する情報は ほとんど無きに等しい状態でした。 日本の美術が世界的に認知されているのに、日本の音楽

わたしの世界観4~大学はピアノ科でなく楽理科へ

さて、 高校2年生ともなれば 大学の進路を決めなくてはなりません。 毎日のおうち練習が負担ではありましたが、 小学校のころから 毎週日曜日に父の運転で東京までレッスンに通って 「ピアノの田中さん」と言われ、 母もそのことに誇りをもって親戚によく自慢していた(;^ω^)ため、 自然と進路は「音楽大学のピアノ科」 という話になってきます。 もともと 近所の子がピアノをやっていたのをみて、 「私もやりたい!」と言って 始めたとはいえ、 母がママ友に勧められて選んだ東京の先生は、 今にして思えば ピアノを弾く人とは思えないほどクールなメガネ女史先生。 ともかく異様に恐くてスパルタで、 毎週日曜日は緊張の極致(;_;) ふつう ピアノの先生といえば、 音楽大学のピアノ科出身というのが通り相場ですが、 その先生は普通大学の幼児教育科出身でした。 (あんなにこわい先生、幼稚園では勤まらなさそう~(;^ω^)) 独学でピアノの先生となり、 一時期、 こどもたちをたくさんピアノコンクールに入賞させていました。 (その後ノンフィクション作家になられたそうです) 私は背も小さく手も小さかったので、 オクターブをつかむのが精いっぱい(T_T)。 楽曲の難易度が進んでくると、 いくら大好きなドビュッシーやラヴェルといえども 次第に演奏がきつくなり、 どんどんやる気をなくしていました。 「やる気がないならピアノやめるの?」 と母に何度か問いただされましたが、 「はい、やめます」ともいえず、、、 当時、 リーチが広くなるように 指の水掻きを手術して切るピアニストもいたのですが、 そんな恐ろしいことはとてもで

ドクターShu「33観音透視術」セミナー

今日は、 メンターのドクターShu(五島秀一先生)による 「33観音透視術」セミナー@足立療術院でした。 五島先生は、 私の頸椎ねじれ症の救世主! サイキックヒーラーです。 物理学者、科学者、中小企業診断士、経営コンサルタント、 ヒーラー。。。 科学、政治、経済学、宗教、スピリチュアルを網羅する 人材育成のスペシャリストでもあり、 守備範囲があまりにも多岐に亙り過ぎる(;^ω^) 「神ってる(死語(;^ω^)?)ドクター」 です。 開発された薬剤「イズマリン」と「アースパワー・クリーナー」の 粉末を手ににっこりドクター! 「33観音・・・」は、 15年ほど前、宮崎県の椎葉村で天啓を受けて編み出されたそうです。 数秘術などをもとに、 3×11の「観音の言霊」の中からキーワードを選び出し、 人生を切り開く方策を読み取る 一種の占いです。 私は「慈愛・包容」を中心に、全10個のワードとガイド名を選び、 過去・現在・未来への流れをつかむことができました(*´▽`*)!! 足立先生手作りのランチも 美味しかった~(●^o^●)!!

わたしの世界観3~ピアノが上手なフツーの女の子が、、

源頼朝の屋敷跡地にある 清泉小学校の生徒さんたち、 当時は比較的裕福なおうちの子が多かったようです。 わたしは 横須賀線で戸塚から鎌倉まで通っていましたが、 電車の中でよく 横須賀基地の米兵さんに 「かわいいねえ!」と声をかけられ 遊んでもらった覚えがあります。 そのときから 「外国人はみんなやさしくていい人たち」 という刷り込みがあったためか、 いまでも外国人アーティストとの共演が 楽しくてしかたありません。 お誕生会におよばれすると、 たいがい 鎌倉や逗子などの大きなおうちでしたが、 きたない社宅アパートの狭い部屋で 自分のお誕生会をしたのも なつかしい思い出です。 中学高校は、 小学校からエスカレーターでそのまま清泉女学院に入学。 小学校は男女共学でしたが、 完全女子校。 修道院のシスターが教師として多く在籍され、 良妻賢母を育てる校風で、 「神のみ前に、清く正しく、愛深く」 が教育理念です。 観音さまのそびえる大船駅に近い 玉縄城跡地に立つ校舎で、 スクールバスに乗りそびれると 長い坂道をえっちらおっちら登らなくてはならず、、、 朝は遅刻寸前までうちでだらだらしていることが多く、 たいがい父か母の運転する車で登校していました (;^ω^) あいかわらず 母から強制されるピアノのお稽古が いやでいやでたまらなかったけど、 お勉強は上位の成績。 クラブは知り合いの先輩にすすめられたまま 「カトリック研究会」。 (かなり地味~な感じ(;^ω^))、、、 英語の先生が ちょっと変わったおもしろい感じのおじいちゃんで、 大のお気に入りでした。 白髪のオールバックで いつもステッキ

わたしの世界観2~こどものころは

1960年(昭和35年)3月某日、 福岡県北九州市で、私は田中家の一人娘として生まれました。 父は「家庭より会社」の、いわゆる昭和の企業戦士。 母は世間知らずのお嬢様育ち。 生まれてすぐに横浜に引っ越し、横浜で育ちました。 母に抱かれておでかけすると、 「こんなにかわいい赤ちゃんはみたことがない」 とまわりに自然と人が集まってくるほどだったらしく、 母の里である福岡の祖父に 目に入れても痛くないほどかわいがられていました 里帰りすると、私は24時間祖父と一緒。 父よりも 祖父にかわいがられていた記憶のほうが強い。 そして、母の兄弟全員からも、 ものすごくかわいがってもらいました。 そういえば、 母は年の離れた妹(私の叔母)といつも一緒だった、、、 幼稚園では、 かわいかったゆえに(;^ω^)いじめられていたような覚えが、、、 (本人は気付かず(;^ω^)、幼稚園の先生に言われて、、) 小学校は 鎌倉のカソリック系私立の清泉小学校に入学。 小食でごはんが食べれなくて、お弁当の時間はいつも居残り。 (今思えばタッパーのお弁当箱のにおいが気持ち悪くて 食べれなかった) お菓子ばかり食べていたせいもあり、 体育の時間はいつも一番前の列でした。 小学校低学年まではとてもおとなしい子でしたが、 中学年からすっかり「たが」がはずれ、 休み時間になると男の子にまじって 人一倍高くて通る声でキャーキャー騒ぎまくり、 先生によく叱られていたっけ。 ピアノがけっこう上手で、 そのころから人前でなにかを表現することに 慣れていました。 毎週日曜日、父の運転する車で通っていた 東京のピアノの先生は、 か

わたしの世界観1~自己紹介

これから新しい自分に変わるために、 自分史をつづってみたいと思います。 田中悠美子、60歳まであとちょっとの58歳アラカン女子。 音楽家。 花の18歳から義太夫(ぎだゆう)三味線をはじめて、 もう40年も経ちました( ゚∀゚; )タラー!! 義太夫三味線というのは、 日本の伝統

4泊5日福岡の旅~その2

「糸島」につづいて、延命寺ご住職・星川夫人と3人で訪れたのは、田村史先生の拠点「大宰府」!! おふたりは、午前中に大宰府詣で、九州国立博物館見学を済ませ、私は史先生の勤務校、筑紫女学園大学のガムラン授業見学から合流しました。 「あなたたちもやってみなさい」の一声で、学生さんにまじってプチレッスン!兵庫教育大学勤務時代、毎年夏休みに集中講義で史先生においでいただいていましたが、そのとき以来ひさしっぶりにガムランの楽器に触りました!!けっこう体感覚で覚えているものですね。 同じフレーズをずっと繰り返しているうちに、瞑想状態へ(;^ω^) ガムランは元来、神さまに奉納する音楽ということもあり、史先生のスピリチュアル度はハンパないんです!! それにしても、やっぱり学生さんたちカワイイなあ! 「箸が転んでもおかしいお年頃」ですね~(*^。^*)! つづいて、国の特別史跡・四王寺山「大野城跡」へ。 「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が、百済亡命貴族の指揮下で665年に築城し防人を配置した、日本最古の朝鮮式山城跡です。 防人、、、まさに「万葉集」のロマンですね~(´▽`*) おひるごはんは、史先生行きつけの割烹へ。福岡はお魚、肉、野菜、果物、なんでもとびきり美味しくて安いので、食の面では先生もしかしてご主人・サプトノ先生(ジャワガムランの巨匠)が住んでいるジャワより気に入っているかも~!(^^)! 写真は↑おばが作ってくれた手料理 食後は、中国・韓国からの観光客でごったがえす大宰府の参道散策。 梅ヶ枝餅もゲットし、次なる目的地、西日本最高の仏教美術の殿堂「観世音寺」へ。 天智天

4泊5日福岡の旅~その1

5月の末、梅雨入り直前の福岡を訪れました。 母の妹にあたる香椎の純子おばちゃま宅に、4泊5日居候の旅です。 香椎は、こどものころから母に連れられてしょっちゅう里帰りして、おじいちゃまやおばあちゃまに、とてつもなくかわいがってもらっていた思い出の町。おばちゃまには今でも大変お世話になっています。 ロシアンブルーのリーフちゃん そもそもの発端は、ジャワガムランの第一人者・筑紫女学園大学の田村史先生に10年ぶりくらいにメールをいただいて、私が単独でお目にかかりに行く予定だったのですが、、 4月の延命寺ライブの打ち上げで、住職の河野亮仙さんが「わたしも史先生に会いにいきたい!」と突如言い出して、先生にゆかりのある民族音楽プロデューサー・故星川京児さんの奥様、康江さんもぜひ一緒に!という流れに。あれよあれよと3人福岡で落ち合うことになりました。 最初の合流地点は、伊都国として『魏志倭人伝』にも登場していた「糸島」。私は兵庫から東京に戻った時点でペーパードライバーになっていましたが(;^ω^)、ありがたいことに住職さんにレンタカーを運転していただくことに!ヽ(^o^)丿!! カーナビがむちゃくちゃな方向にいざなってくれる(;^ω^)ため、行きつ戻りつの繰り返しですったもんだしながらも、まずは名勝奇岩として国の天然記念物に指定されている玄武岩洞「芥屋の大門」(けやのおおと)へ。 遊覧船に乗って洞穴入口に入ると、ピンク色のオーラがやさしく出迎えてくれて、いきなりテンションマーックス(≧▽≦)!!!たしかにおいでになりました!!ヽ(^o^)丿!!姫神さまですね~?(*^。^*) 続いて「つまんで